尾張北部、特に木曽川流域には境界神にまつわる信仰や行事がいまだ消えず残っていますが、「夜鳴石」は、その方面からのアプローチが必要だと思っています。
境界神は古くはその地域への疫神(病気など厄災を起こす神々)を村境で防ぐ神のことです。日本中で広くその神事や習慣が見られますが、例えば村境に大きな人形を立てたり、臭いのする野菜を置いたりなどという例もあります。
当地方で残っているものとしては、一宮市北方町で行われている「つじがため」の行事、当白山神社にも残る「塞神祭」などがそうです。
また、ある程度年配の方は知っておられますが、正月15日前後に行われる「左義長」も、元は村境で行われていました。特にこの地域では村境の三叉路で行われていました(↓写真)。この行事は正月の頃に入ってくる神々・・まか不思議なことですが、正月には歳徳神=一年を守ってくださる神と、疫神も同時に入ってくると考えられていたようで、それらの神々をまとめて送る行事だったと言われます。
さて、夜鳴石の話です。
「夜鳴き石」は私=宮司は境界行事を行った神事の跡だと思っています。村境において疫神を防ぐために祈りを捧げた場所であったと考えます。巨石に対する信仰は古来この国には割合に普遍的に見られます。
申し上げて置きたいのは、白山神社の夜鳴き石が一般の夜鳴き石と違うのは“神社の外に出て鳴き(泣き)止んだ”ことです。そのことについて触れます。
いわゆる全国的に見られる「夜鳴き石」は鳴く(泣く))ことで境内の中に入れられて泣き止んでいます。
その意味は、疫神を境界で防いでいた神が、防疫などの知識の普及や信仰の多様化など、時代が変化し安定するとともにその役割を終えたことで存在を忘れ去られるのを嫌がって(やや情緒に過ぎるかもしれないですが)、境界神としての役割を終えてその存在を忘れられかけて鳴く(=泣く)という言い方がいいのでしょうか・・)という風に解釈できるのではないかと思います。
もちろん一義的なものではなく、地域の人々が長く守ってもらった境界の神に対する哀惜の情が“泣く=鳴く”という表現になったのだと思いますが。
その結果、神社仏閣などの聖域に入れられることで境界神が土地全体の守護神として吸収され、その境界を守る神としての属性=信仰が、本殿に祀られる主神に吸収されてゆくことで、やがて存在自体が人々の記憶の中から消えたことを意味していると考えられないかと思います。
ただ、白山神社の場合は境内から外に出て鳴き(泣き)止んだことをどう解釈したらいいのかは明確にはわかりません。
二つほど考えられるのは、境界神が白山の神と一体化した後に再び(境界で)何か村にとってよからぬ(厄災い)があったために土地全体の神から再び分離したのか、またはそれともそれ以前のもっともっと古い時代の巨石に宿る境界神を祀る物語が後まで残ったのか・・
いずれにしろ、尾張北部には境界を廻る民俗(信仰)が様々な形で残っていると思います。その辺りを掘り下げた方がいらっしゃればお話を聞いてみたいとは思います
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