日本書紀によると、「垂仁天皇の御代、天皇は田道間守(たじまもり)に、常世の国(中国南部からインド方面)の不老不死の理想郷に行き、”ときじくのかぐのこのみ”(非時香具菓、今の橘の実)を求めに遣わせました。
艱難辛苦の9年間シナとインドとを経た末、ようやく手に入れた木の実を持ち帰ったとこ ろ、すでに垂仁天皇は崩御され、嘆き悲しんだ田道間守は垂仁天皇の御陵にもうでて帰国の遅れたお詫びと約束を果たしたことを報告し、持ち帰った橘の半分を
墓前に捧げその場を去らず、絶食数日、殉死した」と伝えられます。
また、『古事記』の本文では非時香果を「是今橘也」(これ今の橘なり)としており、その後都が平安京に移った後、京都御所には右近橘、左近桜として橘が植えられています。
これを嘉(良き前例)として、全国津々浦々の神社等にも左近の右近の橘、左近の桜が植えられています。白山神社にも拝殿の前に橘のご奉納をいただきました。
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